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新島学園
はじまりの物語
新島襄(1843年~1890年)の時代
同志社英学校 創立者 新島 襄 (1843〜1890)
- 1843年
- 江戸神田一ツ橋にあった安中藩主板倉家の江戸上屋敷(現学士会館所在地)にて父・民治、母・とみの間に二男四女の長男として新島襄が生まれました。幼名は七五三太(しめた)。
- 1864年
- 襄は、200年を超える鎖国ですっかり国際的競争力を失った日本を憂い、欧米の文化、思想、キリスト教の勉強を目的として密出国しました。当時21歳のことです。
- 1865年
- ボストンに到着した襄は、その明晰な頭脳と向上心を買われ、裕福な船主・ハーディー夫妻の援助により、アメリカ東部の名門校・フィリップスアカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校でキリスト教やリベラルアーツを学びます。
海外での勉強と経験を通して、襄は、日本の復興には「良心を持った優秀な人材の育成が大切である」と確信し、帰国してキリスト教を基本とする学校を設立し、人材を育てようと決心します。 - 1874年11月26日
- アメリカから帰国した襄は、一路、両親の住む上州安中へ向かいます(安中到着11月28日)。
安中での約一カ月滞在の中で、アメリカの文化やキリスト教の講義を龍昌寺や集会場で行いました。その聴講者の中に、湯浅治郎(当時24歳)という人物がいました。 - 1878年
- 襄は安中にて湯浅治郎をはじめとする30名の求道者に洗礼を授けます。彼ら30名は「襄の蒔いた種」となり、安中教会を設立します。
湯浅治郎(1850年~1932年)の時代
有田屋三代目当主、群馬県会議員、衆議院議員、同志社理事 湯浅 治郎 (1850〜1932)
治郎は、安中で「有田屋」という味噌醤油醸造・販売業を営む商家の長男として生まれました。
13歳の頃から漢学を学ぶために松井田にある「岩井塾」に通い、1872年には日本初の私設図書館「便覧社」を安中に設立するなど、教育に熱心な人物でした。
群馬県議会議長、日本鉄道理事、国会議員 (大蔵予算委員長) の要職に就きますが、1890年に新島襄が亡くなった後、全ての要職をなげうって同志社の経営のために京都に移り住み、20年間、無給でその経営に尽力しました。
※自分の功績は、全くと言っていいほど人には伝えなかったと伝えられています。
- 1926年
- 安中教会50周年を機に、安中に「新島学園中学校開設計画」があるとの記事が東京朝日新聞に掲載されました。
- 1927年
- 住谷天来 (甘楽教会牧師) が、教会誌「聖化」第1号に「新島学園中学校」に関する記事を掲載しました。
(甘楽教会誌「聖化」第1号より)
また、渋川教会栗原陽太郎牧師が、安中教会別館にて、郷土の偉人新島襄を記念する新島中学の設立を訴えます。
この運動に献金12円が集まり、安中教会金蘭青年会が「新島中学校設立基金」として管理しました。
同じ年、柏木義円 (安中教会牧師) が、「上毛教界月報」340号に「共愛女学校と新島中学校」を発表します。
(「上毛教界月報」340号より)
- 1932年
- 湯浅治郎が逝去し、治郎の思いは息子三郎へと受け継がれました。
- 1933年
- 「新島中学設立基金」は24円までに増えました。
湯浅三郎(1877年~1945年)の時代
有田屋四代目当主、安中町長、群馬県会議員 湯浅 三郎 (1877〜1945)
湯浅三郎は治郎の次男として生まれ、長男一郎が画家となったため家業を継ぐこととなりました。
三郎は安中町長26年間、県議会議員14年間務め、地方電力や金融機関にも貢献しました。
- 1945年
- 「この家の財産は、公共のために使え」という言葉を残し、逝去しました。
この時、息子の正次は亡父の遺志として「新島学園中学校」を設立したいと表明し、私財の三分の一にあたる50万円を設立に使用する考えを披露しました。
そして、正次は安中教会牧師館を訪れ、江川栄牧師に「新島襄を記念する学校を起こしましよう。」と告げたのです。
新島中学校設立の夢は、ついに動き始めました。
湯浅正次(1911年~1999年)の時代
有田屋六代目当主、第3代安中市長、学校法人新島学園第2代理事 湯浅 正次 (1911〜1999)
三郎の五男として生まれた正次は、1927年、旧制中学在学中に安中教会基督教青年会機関誌「金蘭」に新島学園中学設立論を投稿していました。
(安中教会基督教青年会機関誌「金蘭」より)
- 1945年
- 正次は新島襄の精神を建学の基盤とする中学校を新設することを表明し、1946年には新島学園中学校設立認可申請書及び財団法人新島学園設立許可申請書が提出されました。
- 1947年3月
- そして、ついに設立の認可が下り、同年5月、安中市に新島学園中学校を設立しました。
5月5日、荘厳な安中教会・新島襄記念会堂で入学式が開かれました。
初代校長兼理事長に湯浅八郎が就任。第1回の入学生は中学一年に45名、二年に37名、教職員は10名でした。
初代新島学園理事長、第十代・十二代同志社総長、国際基督教大学初代学長 湯浅 八郎 (1890〜1981)
(新島学園開校時、湯浅八郎から山崎金治郎教頭へ伝えたとされる言葉)
(江川栄、入学式挨拶より)
こうして、新島襄が上州安中に一粒の種を蒔いてから73年後、その種は地上へと芽を出したのです。
- 1983年
- 新島学園中学校・高等学校を母体とした新島学園女子短期大学を開学(2004年共学化)。
襄をはじめ先達の残した教えは、時代とともに変化する学園においても変わらないものとして今も受け継がれています。
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新島学園の歴史
第1期となる中学2年生37名。
同時に第2期生となる中学1年生45名も入学。
入学式は安中教会で行われた。
初期仮校舎の一部。
セスナ機より航空写真を撮影した。
本校校舎。
5月に屋根をスレートに吹き替えた。
正門門柱は現在も残されている。
6月4日、ライシャワー駐日アメリカ大使夫妻が、高崎経済大学での公演後に来校。 新島学園にメッセージを送った後、新島襄の遺品を見学した。
新島学園聖歌隊シャロンコールが開催した「第3回うたう会」の様子。 群馬音楽センターで開催され、約1500名の入場者を集めた。同志社香里中学校・高等学校オルフォイスグリークラブとの共演。
創立40周年記念事業として、新礼拝堂と塔が完成。
旧礼拝堂は1953年から1985年まで使用。
新礼拝堂が完成するまでは体育館で起立のまま礼拝を行った。
スイス・クーン社制作のパイプオルガンが奉献される。9月には関係者を集めた式典が催され、新進のオルガニスト、ヴォルフガング・ジーバー氏による演奏が行われた。
沿革
1947年 |
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1948年 |
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1951年 |
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1952年 |
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1958年 |
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1968年 |
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1971年 |
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1976年 |
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1983年 |
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1984年 |
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1985年 |
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1986年 |
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1988年 |
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1989年 |
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1990年 |
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1993年 |
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2001年 |
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